私は、奥のせまい部屋で寝ていた。例によって、寝床の中で物を考えていた。大分、不眠症が昂じていた。いろいろな考えが次から次へと頭に浮ぶ。忘れてしまうといけないので、まくらもとにノートが置いてある。一つのアイディアを思いつくごとに、電灯をつけてノートに書きこむ。こんなことが、また何日かつづいた。
十月初めのある晩、私はふと思い当たった。核力は、非常に短い到達距離しか持っていない。それは、十兆分の二センチ程度である。このことは前からわかっていた。私の気づいたことは、この到達距離と、核力に付随する新粒子の質量とは、たがいに逆比例するだろうということである。こんなことに、私は今までどうして気がつかなかったのだろう。
あくる朝、さっそく、新粒子の質量を当たってみると、電子の二百倍程度になることがわかった。それは、プラスまたはマイナスの、電気を持っていなければならない。こんな粒子はもちろん、まだ全然見つかっていなかった。
「何故、見つからないのだろう」
私は自分に反問して見た。答えは直ぐ見つかった。この新粒子をつくるには、一億ボルトという高いエネルギーが必要である。当時まだ、そんな高エネルギーを発生する加速器はできていなかった。
私の自信は、だんだん強くなってきた。菊池研究室の談話会で、先ずこの考えに立脚した新理論を皆に話した。その時、菊池氏が言った。
「電気を持った粒子なら、ウィルソンの霧箱で捕らえられるはずですね」
私は答えた。
「そうです。宇宙線の中なら、そんな粒子が見つかってもいいですね」
それから間もなく、日本数学物理学会の大阪支部の例会で、十一月には東京本部の例会で、新理論を発表した。仁科先生は直ちに、この理論に興味を持ち、私を激励された。
十一月末までには、英文の論文を書き上げて、数学物理学会に送った。こんなに早く論文が出来上がったのは、妻が毎日のように、
「早く英語の論文を書いて、世界に発表してください」
と、勧めたからである。
この時の私の気持ちは、坂路を上ってきた旅人が、峠の茶屋で重荷をおろして、一休みする気持ちにたとえることもできよう。この時、私は前途にまだ山があるかどうかを、しばし考えずにいたのである。
1932年、物質を構成する最小単位である素粒子として、それまでに見いだされていた電子、陽子、光子の他に、中性子がイギリスのジェームズ・チャドウィック(James Chadwick、1891~1974年)によって発見された。これにより、水素を除いて原子核は原子番号と同じ数の陽子とそれ以上の数の中性子からできていることが判明する。では、プラス同士で反発するはずの陽子はなぜバラバラにならないのか? 原子核を結び付けている力(核力)の源は何なのか?
1933年、この難問に対して湯川は、陽子と中性子の間には電子の約200倍の質量を持つ未知の新粒子「中間子」が存在し、それを両者がキャッチボールすることで結び付いているという仮説を打ち出して、1935年「素粒子の相互作用について」と題する英語論文を発表した。
力の源を新たな素粒子に求めるこの大胆な仮説は、しかしすこぶる評判が悪かった。例えば、電気的にプラスの物質とマイナスの物質が引き合うのは電磁気力が働くからで、この電磁気力をもたらしているのが光子である。だから新しい力が発見されるたびにそこに新素粒子をあてがえばよいことになる。1937年にニールス・ボーアが来日したとき、中間子論を説く湯川にボーアは「君は、新粒子が好きなのか」と苦々しく言ったという。また、同じ頃に中間子論を思い付いたエルンスト・シュテュッケルベルク(Ernst Stückelberg、1905~1984年)という学生に対してヴォルフガング・パウリは「自分勝手に新粒子を仮定するべきでない」と、論文を却下したという。湯川自身の言葉が残っている。
シュトゥッケルベルクという理論物理学者がある。時々おもしろいアイディアを出す、すぐれた人であるが、論文は難解で、人柄も大分変わっている。彼はジュネーブ大学の教授をしているが、前述の昨年(1967年:筆者注)七月の国際会議のときに初めてあった。私が
「あなたには、もっと早くお目にかかっておるべきはずだった」
というと、
「もしもパウリが私をやっつけなかったら、私もあなたと同じ頃に、中間子論を提唱していたはずだ」
と答えた。
保江 ある日、車を駐車場に置いて、大学の理論物理学科の建物の入り口まで歩いていたら、 そこに1台のタクシーが乗りつけました。すぐに運転手がダーッと走ってきて、
「狂人を乗せてきてしまたったけど、ここの教授だといっている」というのです。そして、
「精神病院から乗せてきて、どう見ても狂人だが、ここの教授だといって何かわめいているから何とかしてくれ」といいます。
近づいてみると、老人がフランス語で騒いでいるので、
「どうなさいましたか?」とたずねると、僕の方を見て、
「君はドクター・ユカワか」と聞くのです。それで、
「ノン」と答えると、
「じゃあ研究室に連れていけ」と。
僕が、「この人は本当に教授だろうか」と思いつつお名前を聞くと、
「ストゥッケルベルグだ」と答えます。僕もその名前は知っていたので、
「これがあの偉大なストゥッケルベルグ博士か」と思いました。
一般にはあまり知られていませんが、この方は過去に3回ノーベル賞を逃しています。本当はこの人の方が早く出していた論文だったのに、他の人に取られてしまった・・・、運が悪かったのです。
最初に逃したときの相手が、湯川秀樹先生だったので、恨みがあるわけです。それで東洋人だと見ると「お前はドクター・ユカワか」とたずねて、そうだといおうものなら仕返しをしてきたことでしょう。
みつろう 3回もノーベル賞を逃すなんて、運のない方だったのですね。
保江 ストゥッケルベルグ博士は若い頃、湯川先生の中間子理論よりも先に中間子理論の論文を書いていました。
ところが、彼の先生だったパウリが、提出されたその論文を、こんなものはつまらないといって引き出しに入れたまま世に出していなかったのです。
そうしたら半年後に湯川先生が、ストゥッケルベルグ博士の論文よりレベルが下がる内容で中間子理論を出してしまたったのです。
2回目は、量子電磁力学のくりこみ理論です。これについては朝永振一郎先生がノーベル賞を取りました。そのときも本当はストゥッェルベルグ博士の方が早くて、より完成度の高い論文を出していたのです。でもやはりパウリが、引き出しに入れてしまって世に出ていませんでした。
そして、3回目が超電導、超流動理論。これでは、ロシアのランダウという有名な物理学者がノーベル賞をとったのですが、ストゥッケルベルグ博士はやはりランダウよりももっと早く、より充実した論文を出していましたが、これも引き出しに入ったままになりました。
三つのノーベル賞を、パウリがダメにしたわけです。それでついに頭がおかしくなったのですね。