放射性物質

『すべてを変えた5つの「エウレカ!」の瞬間』

 1867年にワルシャワに生まれたキュリーは、後に物理学賞と化学賞の2度ノーベル賞を受賞し、歴史上最も有名な女性科学者の一人となりました。

 彼女の最も有名な研究は放射能の分野でした。夫ピエール・キュリーと共に、彼女はウラン(アンリ・ベクレルによって発見された)から発せられる謎の放射線の源が原子そのものにあることを発見しました。これは全てを変える瞬間でした。それまで、原子は最も基本的な、分割不可能な粒子であると考えられていたのです。その後、彼女はさらに放射能の高い2つの元素、ラジウムと、生まれ故郷のポーランドにちなんでポロニウムと名付けた元素を発見しました。

 彼女の発見は、数え切れないほどの命を救ったX線装置をはじめとする、多くの技術の発展を可能にしました。しかし、高レベルの放射能の危険性を知らなかったはずのキュリーは、高濃度放射性物質の入ったチューブをポケットに入れて持ち歩く習慣がありました。この偶発的な被曝は、彼女が66歳で骨髄疾患により亡くなった原因の一つと考えられます。


アハ体験ではないけれど, 放射性物質エピソードつながり・・・

『独創人間ここにあり』(田原総一郎)

 そもそも原子カフィーバーの火付け役となったのは、1953年12月のアイゼンハワー大統領の国連総会での"雪どけ"提案だった。

 アメリカは、それまで、原子力についてはいかなる友好国に対しても、一切情報を漏らさず、完全な独占政策を固持していた。それを、アイゼンハワー大統領が、突如「友好国には原子力機器からウランまで提供する」といい出したのだ。

 アメリカが、こうしたコペルニクス的な転換をしたのは、ソ連が水爆実験を行ったために原子力を機密化し、情報を秘匿しておく意味がなくなって、友好国を積極的に核保有国にしてソ連を核で包囲しようと図ったのだといわれているが、当然ながら"雪どけ"で原子力平和利用ブームが一挙に爆発した。原子力発電や原子力船はいうにおよばず、原子力列車、原子力自動車、原子力飛行機、原子力戦車などの構想が次々に飛び出してきた。

 日本が最初の原子炉コールダホールの導入を決めるのは1957年の秋だが、当時は原子力についての危倶、不安感はなく、文字通り新時代の旗手だと思われていたのである。

「とにかく、MITでも学生たちが放射能の強いコバルト資料をひもにぶら下げてふり回しながら、他の学生を追いかけ回していたずらしている、といった有様でしたから、いまから思うと、信じられないくらい気楽なものでした」