ミュージック・シンセサイザー

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~『コンピュータサウンド No.2』(Robert Moog)~

シンセサイザ前史・電子楽器の登場

いまも,多くの人々が MOOG シンセサイザやその他多くのアナログ・シンセサイザが,どのようにして開発されたのか,と私に質問をしてくる。察するに,60 年代初期,我々がどのように考え,またどのような目的を持っていたのかを知りたいのだろう。

 だが,考え違いをしないでほしい。我々は会議室のテーブルについて,次に開発すべき楽器について話し合いを持ち,そして作業にとりかかったわけではなかった。

 MOOG シンセサイザも,長い電子楽器開発史の流れのなかのひとつのステップに過ぎないのだ。だから,私のシンセサイザが登場する以前にも,長い経験とその積み重ねの時間があったことを抜きに,話を始めるわけにはいかないだろう。

 電子楽器の歴史は,真空管の発明と同じころにさかのぼる。そして,テープレコーダが登場する以前に少なくとも百件以上の開発がなされていたはずである。

 実際に商品化された中では「ハモンド・オルガン」が代表格だ。個々の倍音を発生する小さな回転ホイール,「トーンホイール」を音源に使い,演奏者はレバー=「ドローバー」で個々の倍音の含み具合を調節し,演奏する。この鍵盤楽器が市場に登場したのは1935 年のことだから,すでに50 年以上もポップ,ジャズ,ロックのプレイヤーたちに愛され続けていることになる。

 そのほかにも,注目すべき初期の電子楽器がある。

 テルミン(Theremin,実際にはセレミンと発音する),オンド・マルトノ(Ondes Martenot),トラウトニウム〈Trautonium)などがそれだ。これらは単音楽器で,演奏にはそれぞれ独自のテクニックを必要とした。

 たとえばテルミンは,2 本の手を楽器の周りの空間で動かすことにより音程と音量をコントロールし、メロディーを演奏する。オンド・マルトノは、右手用の鍵盤とスライドするバンドとの組み合わせで音程をコントロールし、左手用のボタンでアーティキュレーションをつける。トラウトニウムは,リボンコントローラを使いバイオリンのフィンガーボードに指を走らせるようにして演奏する。

 しかし,これらの楽器をマスターするのは大変難しかったので,演奏はそれぞれに熟練した演奏家だけが可能だったのである。たとえば,クララ・ロックモアはテルミンのバーチュオーゾでクラシックの曲を弾きこなし,その演奏は現在CD でも聞くことができる。私の知るところ,彼女だけが唯一の完璧なテルミン演奏家である。

 結局,これらの楽器はさまざまな問題からハモンドほどのポピュラリティを得ることはできずに終わった。

 しかし,「音色」(Timbre)に演奏家が初めて着目し,エレクトロニクスの進歩によって音楽に新しい展開を生み出すのではないか,という可能性を持たせるきっかけにはなった。

 そして,録音作業のなかでこそエレクトロニクスが音楽に完全に活用されるだろうという見通しもこの時期に立ったのである。やがて,1945 年, 「テープレコーダ」が市場に登場すると,このエレクトロニクスを用いた音楽の可能性はにわかに現実味を帯びてくるのだった。

音楽に新しい方法を生み出した,テープレコーダの登場

 テープレコーダを手にした音楽家たちは,録音したサウンドをいろいろな方法で変化させることに熱中した。

 道具といえば,テープレコーダと編集用のスプライシング・ブロックだけだったが,逆回転,再生スピードの変更による音程の上下,テープを切り刻んでの再生,サウンドをミックスしての再合成、録音ヘッドと再生ヘッドの時間差を使ったエコー効果,サウンドの短い断片をつなぎ合わせて新しい音源を作り出す,などの試みがされた。そして,フィルター,周波数変換機,電子スイッチなどを組み合わせた,外付け信号変換機(エフェクター)が使われ,録音した素材のトーンをさまざまに変える作業まで行われるようになったのである。

 テープレコーダの登場により,音楽家たちが音を変化させて新しいサウンドを作り出す機械として着目し,また,バッハやモーツアルトがソナタの1 楽章を五線紙とペンのみで作曲したのと同じ次元で,テープレコーダを作曲に利用できる道具として活用するようになったのだ。

 つまり,テープレコーダをただ音楽を記録するものとしてとらえたのではなく,音色を作り出す楽器,もしくは,作曲用のツールとしてとらえたことが,画期的な出来事だったのである。

 1960 年代になると,テープレコーダを使って作曲を行うためのスタジオが各国に作られた。ケルンの「Northwest German Radio」、パリの「French Radio」、ニューヨークの「Columbia Princeton ElectricMusic Center」などが当時の有名なスタジオである。

シンセサイザの概念とは?

 これらテープミュージック用のスタジオでは,すべての機材が,発振機,フィルター,ミキサーなど,それぞれの独自の機能を持った「モジュール」に分かれていた。目的とするサウンドを完成させるためには,コンポーネント・ステレオなどと同じように,それぞれのモジュールをパッチコード(Patch Cord)と呼ばれるケーブルでつないでやらなければならなかったわけである。

 ここで,「synthesize」という言葉について考えてみよう。これは元来,分離した素材を組み合わせて何かを作り出すという意味である。テープミュージックの作曲家たちが,異なった機材を組み合わせて音楽を作り出す自分たちのことを文字通り「synthesist」と呼んでいたのである。

 彼らは,すでに完成された楽器を使って伝統的な方法で演奏する代わりに,音楽を作り出す素材の断片を組み合わせるという,根源的な手法で創造活動に当たっていたのである。

 彼らがテープによる作曲法を試行錯誤していたころ,Radio Corporation of America(RCA)が,巨大なモジュラー・システムを開発した。これが,俗に「RCA シンセサイザ」と呼ばれるものである。

 このモジュールでは,演奏用の楽譜として紙ロールに穴を空けたものが使用された。

 紙ロ一ル上には,約30mm/sec のインターバルで穴が横に並ぶように設定され,穴の縦列が,音程,アタックタイムなどを意味するデジタルコードとなっていた。そして,音楽家は,鍵盤に向かう代わりに特別製のタイプライターを使い,紙ロールに穴を空けて作曲したのである。そして,長い時間をかけてやっとのことで穴を空け終わると,今度はモーターを回して紙ロールを読み取らせる作業にかかる。

 そして,やっとすべてのモジユールがそのスコアに従ってサウンドを再生するというわけだ。

 モーターは,機械的にマルチトラックのディスクカッターとシンクロしているため,作曲者は連動するレコード盤にダイレクトカットで直接自分の音を記録することも可能だった。そして,何度もこの作業を繰り返させて作品を完成させたのだ。

 すべてが,大変な手間と時間の上に成り立っていた。しかも,現在のようにリアルタイムで作業の確認などできなかった。だが,忘れないでほしいのは,これがマルチトラックのテープレコーダなどが登場するずっと前の出来事だということだ。しかし,これとて,当時は間違いなく最先端の出来事だったのである。

そしてMOOG シンセサイザの誕生

 このように、60 年代初期には,電子音楽の制作法はテープ操作か、紙ロールを使うという2 つの方法しか使われていなかった。とはいえ,実際にそうした電子音楽のスタジオで作業できるチャンスに恵まれた音楽家の数も非常に限られていたのである。

 そこで,そうしたスタジオに属さない進歩的な作曲家たちは自分自身でシステムを持ちたいと真剣に思い始めていた。

 当時,私はコロンビア大学の工学部に在籍していた。そのため,「Columbia Princeton Electric Music Center」のテクニカルディレクターにも面識があり,テープによる作曲法やシンセサイザの概念についての知識も持っていた。

 だから,1963 年に前衛作曲家で音楽教師でもあったハーブ・ダッチ〈Herb Deutsch)と初めて会って話をしたときにも,「電子音楽についての知識があるか?」と聞かれれば,すぐさま「もちろん」と答えることができたわけである。

 ところが,それが始まりを告げるキーワードになってしまったのだ。

 彼は,突然,私にこう言ったのである。「実は,テープレコーダを持っているんだが,それを使って曲を作るためにもっとほかに機材も欲しいと思っているんだ」と。

 私は答えた。「いったいどんな機材が欲しいんですか?」

 彼は言った。「まったく新しくてやたらおもしろいサウンドを作り出せるもの。でも,作業は速く,正確にできるヤツだ」

 そして,彼は自分の作品をいくつか私に聞かせてくれた。私は,自分のアイデアを思いつくまま彼に話した。

 そして,帰り道,ニューヨークの町並みを歩きながら私はやたら興奮していた。予感めいた衝動,なにより彼の望むものを作り上げることを考えると,それは私の興味を引きつけて離そうとはしなかった。

 その後,彼と数週間にわたって,これから開発すべきものについて議論を重ねた。

 当時は,やっと高品質のシリコントランジスタが手に入りやすい値段で登場し始めたころである。私は,その新しいシリコントランジスタの特性を大学で学んでいたので,これを使ってハーブ氏の思い描いていた機能を実現しようと考えた。もちろん,IC もマイクロプロセッサ,デジタルのVLSI など存在しない時代なのだ。

 さて,そのトランジスタを使ってどうコントロールするかが次の問題だった。

 そのころのオーディオ機器はフロントパネルのつまみをいじるだけで操作が可能になっていた。これを,シンセサイザに置き換えると,そのピッチを変えたいと思ったら,ただつまみを廻すだけで音程を変えることができるという便利な代物になる。

 このとき「速く,正確にサウンドを作り出す」という彼の希望を満たすための「Voltage Control」(電圧による制御)という方法を使うことを思いついたのである。

 私は,まず電圧の変化に対応して音程が変化する発振器を作ることにした。

 そして,完成したその発振器を「Voltage Controlled Oscillator」(VCO)と名づけたのである。ご存じのとおり,この名前は今日でも使われている。

 また,同時に,新しいシリコントランジスタを利用して電圧で音量を変化させるアンプ「Voltage Controlled Amplifier」(VCA)と,やはり電庄で制御され,倍音を削るフィルター「Voltage Controlled Filter」(VCF)も制作した。

 こうして,この3 つのモジュールを組み合わせることにより,電気的に作り出されるサウンドの3つの要素,つまり「音程,音量,音質」を電圧の変化に応じて,総合的にコントロールすることが可能と なったのである。

 その制作のさなか,ハーブ氏が私を訪ねて来た。そのときには,まだ2 組のVCO とVCA しかできあがっていなかったが,それを試すなり,ハーブは私の肩を両手で思いっきり揺らしながらこう言った。

 「これが,ほしかったんだ!!」

 彼がいままで苦労して出そうとしていたサウンドを,そのモジュールは簡単に出すことができたのである。

 私はそれぞれのVCO が三角波,ノコギリ波,矩形波といったいくつかの波形を出せるようにデザインしておいた。そのため,この3 つのモジュールの単純な組み合わせだけでも,ある一定のサウンドに対し,音程や音量のさまざまな変化を得ることができたのである。

 いま思えば簡単なビブラートとトレモロのバリエーションにしか過ぎないが,これだけでも十分画期的な時代だった。

 そして,彼はそのモジュールを私から有無も言わせず持ち帰り,すぐさまテープレコーダと組み合わせて曲を作り始めたのだった。

 私は,次に制御用電圧(Control Voltage)を作り出すモジュール,つまりコントローラの開発を始めた。

 最初は,玄関のドアチャイム用の簡単なボタンスイッチを並べて電庄のステップを作り出し,それに変圧器を組み合わせて,連続的な電庄の変化を得るという代物だった。

 次に考えたのは,もちろんキーボードである。鍵盤に一連の抵抗素子,スイッチを組み合わせ,ついに電圧のステップ変化で「演奏」することが可能となった。

 ところが,ピアノのような正しい調律で演奏できるようになったにも関わらず,ハーブは満足しなかった。彼曰く,サウンドにはあらゆる方法論があり,ピアノのような調律も1 つの方法でしかない,というのである。なるほど,音程にしても,もっと自由にさまざまな方法でコントロールされてしかるべきである。

 そこで,私は「Envelope Genelator」の制作を思いついた。これは,入カの電圧信号に反応して”ワンショット”の波形を出力するモジュールだ。つまり,パネル上のつまみの設定に従って,あるレートで波形を増加したら,今度はまた別のレートで減衰することもできるというものである。これをVCO のコントロールに用いれば音程を滑らかに変化させることもできるし,VCA に用いれば滑らかな音量の変化も得られるというわけだ。こうして,ハーブと私はこれらのモジュールを組み立ててみてから,はたと気がついたのである。我々は,大変な可能性をもった「楽器」をそうとは知らず作り上げていたのである。

 どのモジュールも同じ制御電圧でコントロールされているため,パッチコードをモジュール相互の接続に使えば,素早く簡単にモジュールのセットアップの変更もできる。簡単な変圧器を使うだけで,いくつかの発振器を総合的にコントロールし,キーを変えることなど簡単なことだった。

しかも,どんな作業も自分の耳で聞いて確かめながらできる。つまり,機械的な操作にも関わらず音楽的アプローチが可能であるということ,これが実は大変な成果だったのだ。

シンセサイザビジネスが始まった

 1964 年,ハーブと私は,彼の車に我々のモジュールシステムを詰め込んでカナダのトロント大学まで遠征していった。そこのマイロン・シェーファー教授(Myron Shaffer)のスタジオを訪ねたのだった。

 シェーファー教授は,我々の成果を手放しで賞賛してくれた。そして,この作業を続けるように励ましてくれたのである。

 彼に認めてもらったことがずいぶん嬉しくて,ニューヨークの自宅に帰ってもまだ興奮冷めやらずといったところだったが,果たしてこの先どうしていいかはまったくの白紙状態でしかなかった。

 ところが,我々の予期せぬことが起こったのである。シェーファー教授の口から,我々の楽器の噂が流れ出て,噂が噂を呼び,回り巡ってカナダからニューョークまで舞いもどって来たのだ。

 そして,ある日「Audio Engineering Society」(AES)から一通の招待状が舞い込んできた。驚いたことに,彼らは我々のモジュールの展示と講演会を要求してきたのである。

 1964 年10 月,言われるまま,ニューヨークで開かれたAES の会合に,ハンドメイドモジュールのいくつかをラックに組み入れたものを携え参加した。だが,まわりはみな有名なオーディオメーカーのお偉いさんやその道の権威ばかりである。どうも釣り合わない雰囲気で少々卑屈な気持ちになっていたとき,アーウィン・ニコラス(AIwin Nicolas)という男がいきなり訪ねて来た。彼は,私のモジュールを注文したいと言い出したのである。こうしてまったく予期せぬうちに,シンセサイザビジネスが始まってしまったのだった。

 結局,AES が終わるまでにいくつかの注文を受けていた。ニコラスは,有名な振りつけ師で,自分もダンス用の曲を作ったりしている人物。2 番目に注文をくれたエリツク・サイディ(Eric Siday)はコマーシャル音楽のプロデューサだった。その他にも,イリノイ大学などに加えて,あの「Columbia Princeton Electric Music Center」までが発注していったのである。

「スイッチト・オン・バッハ」のヒットによる,シンセの普及  すでに、60 年代半ばには,多くの大学や作曲家が我々のモジュラーシステム・シンセサイザを購入していたが,その中にウエンディ(ウォルター)・カルロス(Wendy Carlos)がいた。カルロスは,「Columbia Princeton Electric Music Center」で学んだあと,ニューヨークでレコーディング・エンジニアとして働いていたが,自身のリビングルームにも機材を集めて、ホームスタジオを作っていた。

 アンペックスのパーツで作られた8トラック・テープレコーダと10IN‐2OUTのミキサー,そして我々特製のモジュラーシステム・シンセサイザ。ここで,カルロスはふたりのプロデューサーとともに,あの「スイッチト・オン・バッハ」を作り上げたのだ。そして,このアルバムはシンセサイザレコードとして最初のビッグヒットを記録したのである。

 カルロスと「スイッチト・オン・バッハ」の成功のおかげで.モジュラー・シンセサイザの注文はうなぎ登りに増え,69 年から70 年にかけては,レコード会社,プロデューサー,大学など多方面からの 発注をこなすのに精一杯だった。

 だが,そのころになると,ほかの会社でもモジュラー・シンセサイザを作り始めていたので,市場が徐々に飽和状態になってきたのも事実として感じられた。

 我々は,開発したテクノロジーを生かすために,そろそろ別のことを考えねばならない必要性を感じていたのである。

キース・エマーソンとの出会い

 69年の春,ニューョーク近代美術館が「JAZZ IN THE GARDEN」というコンサートシリーズを企画し,そこでシンセサイザを使いたいと申し入れてきた。もちろん,当時の我々のモジュラー・システムは巨大なものだったし,ミュージシャンが演奏中にパッチコードを差し替えたりコントロールノブをうまく調節できるとは,私には思えなかった。

 そこで,私は「プリセット機能」をモジュールにつけ加えることを考えた。もちろん,デジタルメモリなどない時代のことなので,これは一種のハードウェア・プリセット型ともいうべきものである。つまり,たくさんの小型スイッチと可変抵抗素子を組み合わせたプリセット用の大きな基盤を使い,スイッチひとつでその基盤の設定に切り替えてサウンドを再現するという代物だった。

 その年の8 月に行われたコンサートには,数千人の聴衆が詰めかけ大盛況だった。そして,ハープ・ダッチや,当時一緒に働いていたクリス・スワンソンらのシンセサイザ奏者に加えて,ハンク・ジョーンズ,ハル・ギヤルパー,マハピシュヌ・ジョン・マクラフリン,パーカッショニストのボブ・モーゼスといった当時一流のジャズ・ミュージシャンたちもシンセサイザを使ってライブ演奏を繰り広げたのである。

 そのとき,コンサートで使われたものと同じプリセット・モジュールを組み込んだシステムを4 台作ったが,ロンドンのディストリピュータからそのうちの1 台に注文がきた。注文書の購入者名の欄には,キース・エマーソンと記入されていた。

 数か月後,私はそのディストリピュータに案内されてロンドンのキース・エマーソンのアパートを訪ねたのである。そのときが初対面だったが,彼は「ちょうどELP というニュー・グループを結成したところで,最初のアルバムのレコーディングの真最中なのだ」と話してくれた。そして,私に録音したばかりだという「ラッキー・マン」という曲を聞かせてくれたのである。サウンドは,斬新で素晴らしいものだった。だが,それがロック・ミユージックに MOOG シンセサイザが初めて使われた記念すべきレコーディングだったということは,そのとき誰も気がつかなかったのである。

 キースが70 年代を通して,ELP のステージやレコーディングで使っていたMOOGシンセサイザは,その後何度か彼のために改良やモジュールの付加を行ったが,基本的にはそのときのモジュールをもとにしたシステムなのだ。

 そして,彼の独創的なアプローチによる,あの記念すべきサウンドは,いまも,CD やレコードで聴くことができるのである。

MINI MOOG の誕生

 70 年代初頭,すでに多くのミュージシャンがシンセサイザをスタジオやライブで使いたいと思っていた。ただし,彼らにはモジュラー・システムよりも,小型で簡単なものが必要だったのである。

 そこで,私はMINI MOOG を設計したのである。この MINI MOOGも,シンセサイザ・モジュールで構成されているが,モジュラ一・システムと異なり,すでに内部でモジユール同士が接続されているため,バッチコードは必要としない。小型にするために,キーボードは3 オクタープ半の短いものを採用し,加えてホイールタイプのコントローラを2 つ取りつけた。1 つはピッチベンド用,もう1 つはモジュレーション用にである。そして,これらを木製のキャピネットに納め,ピアノやオルガンの上に置いて演奏できるようにした。

 ところが,最初楽器屋のオーナー諸氏には,この MINI MOOG の評判は決して良くなかったのである。彼らは,我々がこの新製品を店に置いてくれるように頼みに行くと,すごいけんまくで我々を外に追い出し,こう言ったものだった。

 「こりゃなんだ,楽器だって?うちじゃこんなものは売れるわけがない。さあ,帰ってくれ」

 ところが,まずミュージシャンたちが飛びついてくれた。キース・エマーソンは3 台注文をくれたし,リック・ウェイクマン,ヤン・ハマーといった名の知れたプレイヤーたちが次々と MINI MOOG を使い始めてくれたのである。すると,現金なもので,今度は楽器屋のほうから MINI MOOG を置きたいと頼んでくるようになった。こうして,急速に MINI MOOG は音楽業界に普及していったのである。

 私の昔の会社である「MOOG MUSIC」は,70 年代をとおして世界各国で延べ約13,000 台の MINI MOOG を販売した。もちろん,日本もそのなかに入っている。

 73年,当時日本のディストリビューターだったヤマハの招きで初めて訪日したときには,実際に店頭で MINI MOOG の説明をしたことをよく覚えている。この旅行中に,冨田勲氏とも初めて会った。

 さて,その後もMOOG MUSlC はいくつかのパフォーマンス型のシンセサイザを市場に送り出した。サテライト(The Sate1lite)は,最初のプリセット型シンセサイザ。POLY MOOG(The Polymoog)は,世界初のポリフオニック型のシンセサイザだった。そのほか MICRO MOOG,プロディジーといった製品もあった。

 しかし,やがて80 年代に入り,マイクロプロセッサが重要な役割を果たすようになると,シーケンシャル,オーバーハイム,ローランド,ヤマハといったメーカーが,シンセサイザ市場において急速に台頭して来るのである。