さて、ここでナウマンが来日した 1875 (明治8)年に時間を戻します。
この年の 11 月 4 日、ナウマンは早くも、最初の地質調査旅行に出かけました。それは従者と通訳を従えただけの単独行でした。
馬車で東京を出たナウマンは、高崎から礁氷峠を越えて中山道を下り、追分(現在の軽井沢町)の宿場で数日滞在して、浅間山に登っています。
その後、現在の JR 小海線に沿って千曲川沿いに進み、鉄道最高点のある野辺山に至ると南下して、獅子岩を超えて平沢という小さな集落に泊まります。宿としたのは、古い民家でした。
その夜は、風に見舞われました。木の板だけの壁はガタガタと揺れて、いまにも壊れそうでした。ろくに眠れないまま一夜を過ごしたナウマンは、夜が明けるとともに宿を出ました。風は止み、青空がのぞいていました。そして峠から南西を見下ろしたとき、ナウマンは言葉を失いました。
彼の目に飛び込んできたのは、はるか眼下に釜無川の流れる平坦な台地の向こうに、2000m 以上もの高さのある南アルプスの鳳凰や駒ヶ岳が、ちょうど壁のように突っ立っている姿でした。そして、その南西の奥には富士山がさらに高く威容を見せつけていました。 「こんな光景がこの世にあるのだろうか。こんな大きな構造は見たこともない」
ナウマンは言い知れぬ感動をおぼえたといいます。と同時に、なぜいきなりあんな高い山が聳え立っているのか、なぜこのように大きな構造ができるのだろうか、という疑問も抱いたに違いありません。そして彼は、いま自分が立っているのは地面にできた巨大な溝のような場所ではないかと考えたのです。
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ナウマンが見たのは、まるでインド平原からはるかヒマラヤ山脈を見上げるような光景だったことでしょう。記念すべき、1875 (明治8) 年 11 月 13 日の早朝のことでした。
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1885 年、ドイツに帰国したナウマンは、日本の地質についての論文を出版しました。その中でこの地形を、ドイツ語で「大きな低地帯」という意味の「Grosser Graben」と名づけました。西南日本から続いてきた古い地質が、この地形との境界のところで急に低くなるので、この地帯を低地または凹地と考えたのです。しかし、Graben(グラーベン)は地質学では、「断層で両側が切られた地溝」のことをいいます。ナウマンはそのような地溝であるとは考えていなかったので、1886 年にラテン語の「Fossa Magna」に変更しました。「Fossa」は「地溝」、「Magna」は「大きな」という意味です。これが、この地形の命名の語源になったのです。
「フォッサマグナ」は、その後、140 年にもわたって、日本列島を考えるための「鍵」と考えられています。しかし、現在に至ってもなお、その成り立ちをはじめ、多くが謎に包まれたままなのです。